
愛知県瀬戸市の中でも、とりわけ歴史ある窯元が集まる赤津地区。細い路地に窯元や陶芸家、問屋が軒を連ね、今もなお“窯の里”の情緒を色濃く残すこの場所に「六兵衛陶苑(ろくべえ とうえん)」はあります。
開窯は、江戸時代の寛保2(1742)年。国の伝統的工芸品に指定されている「赤津焼」をつくる窯元です。釉薬づくりに、ろくろ、絵付けなど、昔ながらの手仕事でものづくりをされていながら、日常使いしやすいお手頃な価格が大きな魅力。現代の名工にも選出された92歳の現役ろくろ師も現役で活躍する、工房におじゃましました。
「うちは芸術家ではなく、技術屋」

「六兵衛陶苑」は、知る人ぞ知る老舗窯元です。
小売店に直接卸すことはほとんどなく、ろくろを得意とする手仕事で業務用食や問屋からの注文を受けて、ものづくりをされています。
こちらでつくるのは、伝統的工芸品の「赤津焼」。
その歴史は古く、はじまりは奈良時代(700年頃)にまで遡ると言われています。鎌倉時代には日本で初めて釉薬(ゆうやく)を用いた焼き物が焼かれ、織部、志野、黄瀬戸、御深井など「七種類の伝統的な釉薬」を使い分けるのが赤津焼の大きな特徴です。
そのなかでも、「六兵衛陶苑」でとくに目を引くのが、織部の深い緑の器。

左は「Masukichi」代表・南慎太郎、右が「六兵衛陶苑」二十七代当主の加藤大吾さん。
「うちはね、技術屋なんですよ。芸術家ではない。こういうものが欲しいと言われたら、いかにコストを下げて作れるかを考えます。昔から技法もあまり変わらず作り、変わらないことが、今では特徴になっていますね」
伝統的な手仕事を大切にしながらも、問屋や飲食店などからの注文には実に柔軟。「貫入(ヒビ模様)なしで作れますか?」という要望があれば、織部の色は出しつつ貫入を出さない手法へ変更して対応するといいます。
織部といえば、貫入は大きな特徴のひとつ。貫入を入れないなんて、「何を言ってるんだ!」と怒られてしまいそうなイメージがあったのですが、求められるものをつくり、期待される価格でつくれるかを考えてくださいます。
土と釉薬へのこだわり

粘土は瀬戸でよく使われる“貫入土”と桃山茶陶時代から愛されている、お隣の岐阜県で採れる“五斗蒔”の粘土を粘土屋から仕入れています。それらの粘土を70年近く前にここで働く職人たちで作ったという、動力で動く機械を使って均一にさせていきます。
粘土は自然のもののため、採れた層によってムラがあります。釉薬の美しさは、土と釉薬の相性。そのムラをできるだけなくすためのひと手間だといいます。
織部をより深く、美しく

織部の釉薬には銅を使い、酸化焼成します。すると、空気と結びついて少し酸化被膜(くすみ)が出るため、それを取り除くために、水にどんぐりの笠をたっぷり入れた“栃渋”で一晩つけ、天日することで、より鮮やかに発色します。

こちらが栃渋。45Lの袋いっぱいにどんぐりの笠を集めて、水に漬けたものです。この栃渋につけることで“貫入”と呼ばれるヒビのようなものを強調し、織部特有の味わいを出しています。

さらに、こうした織部釉の器によく見られる、茶色の釉薬で描かれた鉄絵。これは、山で採れる“鬼板”という鉄が含まれた原料を釉薬にして、描かれています。

鉄絵の原料となる鬼板。

細かく擂(す)って、水にといたもの。

淡い紫は、銅を使った織部の釉薬。このように、昔から使われてきた原料を大切にしながら、伝統的なものづくりをされています。
93歳の現役ろくろ師、現代の名工・山内砂川さん

そして、「六兵衛陶苑」を支える職人が、ろくろ師の山内砂川(やまうち・さがわ)さんです。この工房で、80年近くもろくろを回し続けている、生きる伝説です。
その経歴は驚くほど輝かしいもの。43歳で出場した全国選抜手ろくろ競技会で、ぶっちぎりの1位。75歳で「現代の名工」選出。77歳には「黄綬褒章」を受章。
まさに日本を代表するろくろ職人です。
「仕事ってのは、耳が悪くなったらもうあかん。私はまだ聞こえるし、目も見える。93歳までやっとる人、ほかにおらせんよ」
凄まじいスピードで回るろくろの上で、土の塊が一瞬にして筒状に立ち上がっていく。厚みを整え、サイズを測る道具「トンボ」を当てると、高さも飲み口の直径も、寸分違わずピタリ。息を吸うように、自然に手は動き、湯呑になっていきます。
その姿は、93歳という年齢をまったく感じさせません。
1日300個が一人前。「なんでも作る」職人の姿勢

砂川さんが、弟子入りしたのは14歳のとき。
もともと工房の近くに住んでいて、実家もやきもの家系だったといいます。けれども、お父さんが早くに亡くなったことで、中学を辞め、働き出すことに。
毎日、毎日、朝7時から夜10時まで、弟子として働く。
長い1日が終わったと思ったら、ここからが砂川さんにとって、ろくろの練習本番。昔は教えてくれる人などおらず、「技は見て盗む」時代でした。
早さはもちろんのこと、徳利ならば、200mlや220mlと正確につくる。それで、1日300個を作ることが一人前とされていました。
16歳になると、「茶道や華道を知らない人が、茶道具や花器はつくれないでしょう」と、茶道と華道を習いはじめ、その後、師範に。ろくろ師として、とことん道を極めるということが伝わってきます。
そして、ついに1日300個を作れるようになり、20歳になると一気にその頭角を表します。
問屋から「こんなもの作れるか?」という注文が来ると、即座に対応。難しい形でも、なんのその。注文が入れば、あっという間に数を揃えていく。
「どえらい茶道具が売れての。すごい景気がようなったの。ろくろ師は一個作ったらいくらの世界。ちょろちょろ作っては、飯は食えん。なんでも作らな」

砂川さんの技術力によって生まれた、良質なものを次々に提供する姿勢。それが、現在の「六兵衛陶苑」に続いているのです。
「俺も腕が落ちたかなと思っての。1時間で何個できるかやってみたら、まだ130個できたな」そんなふうに笑って話されるのですが、これほど作れるひとは、今後はもう出てこないのではないでしょうか。
大吾さんも、京都でろくろ師の修業をされたそうですが、
「砂川さんがいるうちは、僕が出る幕はありません! 砂川さんは1日で400から500個つくるので」と語り、その圧倒的な生産能力に驚かされるばかりです。
「責任があるもんで、やめられん」――生涯現役の凄み

手を動かす砂川さんは、めちゃくちゃパワフルで、お元気そのものに見えます。けれども、91歳のときに腎臓の数値が悪くなり、現在は週に3日透析を受けているといいます。
それでも、「責任があるもんで、やめられえへん」と砂川さん。
その言葉には、ろくろ師として、そして、「六兵衛陶苑」を支えてきた存在として、生涯現役でやるぞという、凄みを感じました。
「六兵衛陶苑」の価格設定。それは、安かろう、悪かろうなどではなく、圧倒的なスピードと正確さを誇る熟練の職人技があるからこそ。
「本物の赤津焼をいつもの食卓で使ってほしい」そんな想いを感じられる窯元です。